2013年1月27日日曜日

人間はいつ人間になるのか

去年から日曜日に教会に通い始めたJunjun家です。 私たちが通っている教会では時々いろんな社会問題を取り上げていて、今週は中絶についてのお話がありました。 

今日お説教をした牧師さんにはダウン症をもったお子さんがいます。(そのお子さんがうたこと同じ学校に通っているので学校を通じてこの牧師さんご家族と知り合い、紹介していただいてこの教会に通うようになりました)。

今日のお話のポイントは
・どこからが生命(人間)なのか? 胎児は単に「細胞の塊」なのか、「人間」なのか、「完全に人間ではないけれど人間になる発展途中のもの」なのか?
・障害を理由に中絶する場合があるが、「障害のある人間は生きる価値がないのか?」
といった点でした。 

これまで中絶の問題は「女性の自立の問題」でもあると思っていて、そういう意味ではある面中絶賛成派(中絶がよいということではなく、女性に決める権利があるという点で賛成という意味)だったのですが、最近は反対に傾きつつあります。 

理由はやはり今日の牧師さんのお話にあったような点。胎児が単に細胞の塊でしかないとは思わないし、胎内での胎児の脳の発達やその他は実際に科学的に証明されていることでもあります。 

そして障害を理由にした中絶。最近、99%の高確率でダウン症の有無がわかる血液検査ができるようになり、日本でも議論になっていますね。こうした検査を受けてダウン症があるとわかった場合、中絶を選ぶ親がとても多いそうです。

お話を聞きながら、その牧師さんのお嬢さんのお顔を思い浮かべ、泣けてきそうになりました。おとなしくてとても可愛らしいお嬢さんです。彼女に生きる価値がないなんて、彼女のことを知っている人は誰も思わないはず。 

今日のお話で「人生は障害のあるなしに関わらず、誰にとってもinconvenientなものなんだよ」とおっしゃってました。本当にその通りだと思います。 

中絶や安楽死、高度な不妊治療(他人の卵子を使うなど)といった問題について議論すること、自分の意見を述べることは難しいですね。私は「自分だったらこうする」というのははっきりしているけど、「みんなも○○すべき」とは言えません。中絶については「強姦された場合はどうなのか?」という問題もあるし。(胎児の人権や生きる権利を考えれば、強姦されてできた子だって関係ないわけで、難しい問題です)。 

ここにいろいろと書いて皆さんと議論しようとか、皆さんにも私と同じ考えをもってもらいたい、ということではないのですが、とても考えさせられるトピックだったので書いてみました。

2013年1月25日金曜日

気にしすぎ?

時々「黒人ばかり」という表現を聞きます。

単に事実として述べてるだけならよいのですが、「黒人ばかりの」と形容詞的に使われているとき、そこにネガティブな要素を感じとってしまう私は考えすぎでしょうか?

うーん。

夫が黒人だから(ちなみに夫の家族は「黒人ばかり」です)気にしすぎ??

小学校のときに国語の教科書に出てきた話を思い出します。

文房具屋さんに買い物に行き、「このノートはいくらですか?」と聞くと、店番をしていた女性が「そこに書いてありませんか? ○○円です」と言いました。

筆者は女性が「そこに書いてありませんか?」と言ったことにひっかかります。そう言うことでお客さんに「しまった。書いてあるのに聞いてしまった」と気まずい思いをさせるだけなら言わないほうがいいのではないか。

とまあ、だいたいこういう話だったと思います。

それ以来、誰かが何かを言ったとき、「なぜそれを言わなければならなかったのか?」とよく考えます。

店番をしていた女性が「そこに書いてありませんか?」と言ったのは「書いてあるんだけど仕方ないから教えてあげましょう」という気持ちが(無意識かもしれないけど)あったからですね。どうせ教えてあげるんだったら言う必要はないですから。

ちょっと違うかもしれないけど、言わなくてもよいときにわざわざ「黒人ばかり」と言うということはそれを言うことで何かを伝えたいのだと思うわけです。(「怖かったんだよ」とか?)

やっぱり考えすぎかなあ~。

日本に住んでいる日本人にとって「黒人ばかり」という状況は全く日常とはかけ離れた経験でしょうから、単にそれを言いたくなるだけなのかもしれません。

うーん。

気にしすぎかもしれないけど、たとえばうちの夫が「気がついたら黒人ばかりの場所にいて……」みたいな言い方を聞いたら、やっぱりうれしくないと思うんですよね~。「それで?」って言いたくなるよね。

最近私の周りで「黒人ばかり」という表現を使った人がもしかしてこのブログを読んでいたらごめんなさい。けしからん!って非難するつもりじゃないのよ。差別するつもりはないと思うから。ただ、なんとなくナイーブすぎるというか、ちょっと不用意な発言という気はします。

やっぱり気にしすぎかなあ?

2013年1月23日水曜日

自分なりのブログのルール

ブログは以前からやっていましたが、お料理の写真、家族日記、読んだ本の紹介、世の中の問題など、いろんなことがごちゃーっと詰まってきましたので、3つのブログにお引越しすることにしました。

食べ物関係は『ペスクタリアンな食卓 in USA』、日記は『チャールズ川のほとりで』、そして私の頭の中でいろいろ思うこと、感じることはこのブログ、『Junjunのあたまのなか』で。私の頭の中は大抵くだらないことばかりですが(笑)、ここに吐き出していきたいと思います。

Mixi日記から始まって、ブログももう何年になるでしょうか。7年くらいかな??

ブログについての簡単なルール。(自分のための覚え書き)

①基本的に実名不使用
実名は使わず、Junjunとして書く。また、友人が実名で書いた本や記事などをご紹介するときなどを除き、家族や友人の名前も基本的にイニシャル表記とします。(実名を出されたくない人も多いと思うので)
写真も人物の顔は基本的に隠します。

実名でブログ書こうかと一時期考えたこともありますが、私の場合は実名で書くメリットが特にないのでJunjunのままとします。(これまでJunjunとしてmixiやTwitter等やってきましたので、Junjunとしてのアイデンティティもあります)。

ちなみにFacebookは実名でやっていますが、FB friendsは2、3人の例外を除いて全員実際に知っている人ばかりで、使い方が違います。自分や家族の写真も載せています。

②悪いことはわざわざ書かない
ブログやFBにはよいことばかりが並んでいて、人の書き込みを読んで落ち込む人も多いと聞きますが、私も基本的に悪いこと(家族や友人の悪口、落ち込みなど)は書きません。

理由はそういうことを書いても自分も楽しくないし、読む人はもっと嫌な気分になると思うから。それにそういうことを書いていると悪い経験をさらに強めることになり、いっそうネガティブになりますよね。(寝る前にはその日にあったよいことだけを考えろとよく聞きますが、その通りだと思います)。

ま、そんなこと言ってても人間なのでちらっと書いてしまうこともあるかもしれませんけどね。

③Junjunという一個人としての意見、見解、感想
ここに書いてあることはあくまで私の頭の中のできごとであり、私一個人としての意見、見解、感想です。

在米のため、日米比較的な内容も多くなるかと思いますが、これも広く調査した結果ではなく、Junjunの経験内での比較であり、「日本全体」と「アメリカ全体」を比べたものではありません。

こんなこと書かなくても当たり前なのかもしれませんが、「そんな考えは間違ってる!」「そんなこと書くなんて許せない!」というこわーい読者さんもいるかもしれませんので(これまでにはなかったけど)、念のため。

では、これからよろしくお願いします。